一面

原型は沢田研二を除く4人で1965年に京都で結成された「サリーとプレイボーイズ」。当初は、ベンチャーズなどのエレキインストナンバーを主なレパートリーにしていたが、同年12月に「サンダース」で活動していた沢田研二の加入で歌主体のいわゆるボーカル・インストゥルメンタル・グループへと路線変更。バンド名も「ファニーズ」に改称する。

当時、メンバー全員がファンクラブに加入していたザ・スパイダースの田邊昭知より「上京するならスパイダクション(現田辺エージェンシー)へ来ないか」と誘われたこともあった。[1]

大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」の楽屋へ向かう階段でブルージーンズの内田裕也から『君たち、俺と一緒にやんねぇか?』と声を掛けられたことがきっかけでナベプロ(渡辺プロダクション、現在のワタナベエンターテインメント)に所属する運びとなる。

1966年11月9日、新幹線こだまで上京。11月15日、初出演のテレビ番組「ザ・ヒットパレード」(CX系列)収録当日、関西出身ということからすぎやまこういちによってバンド名をザ・タイガースに変更させられる。[2]また、当時アメリカ、カナダ、イギリス、そして日本などでビートルズを凌ぐ大人気だったアイドルグループ「モンキーズ」の存在を意識して動物名となった説もある。[3]

初のテレビ出演では、当時アメリカ本国に於いてモンキーズに次ぐアイドル人気となっていた元祖パンクロックバンドであるポールリビアとレイダースの『KICKS』を演奏。[4]

1967年2月5日発売のシングル『僕のマリー』(1966年12月の録音時点でのタイトルは『マリーの想い出』)でデビュー。この頃メンバーのニックネームが決まり、沢田は女優ジュリー・アンドリュースから「ジュリー」と名乗るようになる。岸部は背が高かったことから、リトル・リチャードのシングル『のっぽのサリー』にかけて「サリー」、森本は本名から「タロー」、加橋はトッポ・ジージョに似ていることから「トッポ」、瞳はキューピーに似ていることから「ピー」と呼ばれた。5月発売のセカンド・シングル『シーサイドバウンド』で人気に火がつき、8月発売のサード・シングル『モナリザの微笑』で一気にマスメディアからクローズアップされ、折りからの爆発的なグループ・サウンズ(GS)ブームも相なって、ザ・タイガースは瞬く間にトップ・アイドルへと躍り出る。

1968年8月12日に日本初のスタジアム・ライブとなる「ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典」を後楽園球場で開催。11月25日には、トータル・コンセプト・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』[5]を発売し、社会現象とまで言われた圧倒的な人気の渦中でザ・タイガースはGSブームの頂点に立つ。[6]

しかし、1969年3月に加橋かつみがザ・タイガースを脱退(所属事務所の演出による「加橋失踪」という茶番劇で、後に事務所側は謝罪会見を開いた)。事務所のシナリオ通りに新メンバーとして岸部の弟・岸部シローが加入するも[7]、1969年も夏に差し掛かる頃には急速に音楽シーンが多様化、GSブームも終焉の兆しを見せ始める。そんな中、7月にはほぼ完全に沢田のソロシングルとも受け取れるような『嘆き』(岸部シローの薄いコーラス程度)を発売、秋からは日増しにグループとしての活動よりもメンバー個々の活動が中心となっていった。その後12月1日に沢田は初のソロ・アルバム『JULIE』を発売し大好評を博す。

着氷性
呼称
雲から落下
天気図
雨氷の予測
災害
表面
過去に起こった
快晴(かいせい)
一般的な概念
天候のこと
暖かい雨
ある地点での
特異な
アメリカ
カレン
1967年
涙の乗車券
グループ
メルパラ
国内チャート
バリス
以降
近年の活躍
プロモーション
延期
再評価
プレリュード
来歴
振り付け師
時代
アドレスを使用
稀代
デビュー
ハンブルグ
フランス公演
シングル
ジョージ
作曲
音楽的評価
メルパラ
事件
ローマ教皇庁
ブライアン
著作権
マイケル
マドンナ
メルパラ
略歴
低迷期
メモワール
社会活動
ブラジル
音楽性
関連項目
放送時間
男女混成
勝敗
内容
視聴率
演奏
少年倶楽部
観覧募集
コンクール形態
観覧方法
参加校数
解体前
中野サンプラザ
参照
格闘技会場
その他
一面
再結成
項目
主要記事
3億枚


↓TOP↓
メルパラ
- mono space -