フランス公演

その最中にアメリカで「抱きしめたい(キャピトルでリリースした初のシングル)」がシングルチャート1位になったという連絡がビートルズにもたらされる[29]。2月にグループとして初めて渡米し、メルパラ9日にCBSの「エド・サリヴァン・ショー」に出演。ポールの発言によれば視聴者数は7300万人[30]となった。11日にワシントン・コロシアムで初のアメリカ公演を開催。カーネギー・ホールで2回目の公演を開催した後、16日にマイアミのドービルホテルで2回目のエド・サリヴァン・ショーに出演。この番組の冒頭で司会のサリヴァンは、ビートルズが初出演した9日の放送がアメリカのテレビ史上最高視聴率をあげたとコメントしている[31]。4月4日、アメリカでチャート上位5位までを独占[32][21]。6月からはデンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、ニュージーランドを回る世界公演が開催されるが、リンゴが扁桃腺炎に患って入院し、代役としてジミー・ニコル(Jimmie Nicol)が起用される。その後回復したリンゴはオーストラリアで合流。アデレードのタウン・ホール(Adelaide Town Hall)での公演の際は、集まった30万人から歓迎を受けている[33][34]。

7月6日、イギリスで映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」公開。10日に同名映画のサウンドトラックアルバムがリリースされ、5月に「ウィズ・ザ・ビートルズ」を抜いて12週間1位を保持していたローリング・ストーンズのファーストアルバムを25日に抜いて1位となり、21週間連続1位を維持した。





1964年,アメリカで
この後1966年の末まで、イギリスのアルバムチャートはビートルズとローリング・ストーンズが1位争いを繰り広げ、ボブ・ディランとサウンド・オブ・ミュージックのサウンドトラックの2者のみがチャート争いに参加するという構図になった[6])。またアメリカのビルボードにおいても、「Meet The Beatles!(11週連続)」、「The Beatles' Second Album(5週連続)」、「A Hard Day's Night(14週連続)」の3作が1位を獲得している。「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上の売り上げがあり、歴代でも世界のトップクラスのセールスを記録した。アメリカでは、次作のシングル「キャント・バイ・ミー・ラヴ」が予約だけで210万枚に達し、またイギリスでも予約枚数が100万枚になり『ギネス・ワールド・レコーズ』には最も予約枚数があったレコードとして記載されている。

8月からは第2回アメリカ公演旅を行い、34日間、24都市で32公演[31]が開催される。9月に帰英し「ビートルズ・フォー・セール」を録音。10月からはイギリスで27都市の公演が行われた。12月4日、イギリスで「ビートルズ・フォー・セール」がリリースされた。

1965年

2月[14]から映画「ヘルプ!4人はアイドル」の撮影開始。前作のドキュメンタリー・タッチな内容から、任意の事件が発生するストーリーが存在する作品となり、今回はカラー映画にもなった。公開は7月。サウンドトラックアルバム「4人はアイドル」は8月6日にリリースされた。その収録曲のひとつである「イエスタデイ」は、後にビートルズ・ナンバーの中でも際立って有名な曲のひとつとなる(当該項目を参照の事)。同月15日、ニューヨークのシェイ・スタジアムで55600人[35]の観客を集めた野外コンサート開催(詳細は#野球場でのコンサートを参照)。10月、メンバーにMBE勲章が授与される。12月、「ラバー・ソウル」リリース。ジョンはこのアルバムについて、ビートルズが音楽的に同時代に影響を及ぼした最初のアルバムだと述べており[31]、実際に「ドライヴ・マイ・カー」や「ひとりぼっちのあいつ」、シタールを演奏に加えた「ノルウェーの森」など、それまでのビートルズにはなかった作風が登場した。なお、シタールの導入を提案したのはジョージであり、ラヴィ・シャンカルの影響であるとコメントしている[36][31]。同月、最後のイギリス公演旅行を行う。また、この公演旅行中に、メンバーがコンサート・ツアーを続ける事に疑問を感じて話し合いの場を持っている[37]。

1966年

3月、ジョンがイギリスのインタビューでキリスト教に関する発言を行う。8月になってその発言の一部がアメリカのマスコミに転載され、物議を呼ぶ(詳細はジョンのキリスト発言を参照)。4月から「リボルバー」の録音が開始される[38]。6月からドイツ、日本、フィリピン公演(詳細は#日本公演、及び#フィリピン事件を参照)。8月、最後の(ただし最後だという事はメンバー間のみの秘密事項だった[31])アメリカ公演旅行が開始され、29日のキャンドルスティック・パークで終了した。同月5日、イギリスで「リボルバー」がリリースされた。

9月、ジョンが「ジョン・レノン僕の戦争(How I Won the War)」の撮影のためスペイン入り。休憩時間を使って「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を書いている[39]。ほぼ同時期にジョージがインド音楽の研究のためインドに行き、ラビ・シャンカルと対面している[40]。11月、ジョン・ダンバー(マリアンヌ・フェイスフルの前夫)の招待[41]でジョンがインディカ・ギャラリーに赴き、オノ・ヨーコと出会う。同月、公演旅行中止後初めてアビーロード・スタジオに集合し「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」、「ホエン・アイム・シックスティー・フォー」、「ペニー・レイン」等がレコーディングされた。これらの曲は当初次回作アルバムに収録する予定だったが[42]、キャピトル側がシングルの早期発売を要請してきたため[21]、この内の2曲が先行してシングル発売される事になった。

着氷性
呼称
雲から落下
天気図
雨氷の予測
災害
表面
過去に起こった
快晴(かいせい)
一般的な概念
天候のこと
暖かい雨
ある地点での
特異な
アメリカ
カレン
1967年
涙の乗車券
グループ
メルパラ
国内チャート
バリス
以降
近年の活躍
プロモーション
延期
再評価
プレリュード
来歴
振り付け師
時代
アドレスを使用
稀代
デビュー
ハンブルグ
フランス公演
シングル
ジョージ
作曲
音楽的評価
メルパラ
事件
ローマ教皇庁
ブライアン
著作権
マイケル
マドンナ
メルパラ
略歴
低迷期
メモワール
社会活動
ブラジル
音楽性
関連項目
放送時間
男女混成
勝敗
内容
視聴率
演奏
少年倶楽部
観覧募集
コンクール形態
観覧方法
参加校数
解体前
中野サンプラザ
参照
格闘技会場
その他
一面
再結成
項目
主要記事
3億枚


↓TOP↓
メルパラ
- mono space -