デビュー

1957年3月、ジョン・レノン、スキッフル・バンド「クオリーメン」結成(詳細は同バンドの項目を参照の事)。同年7月6日、メルパラウールトン(Woolton)のセント・ピーターズ教会(St. Peter's Church)が開催したガーデン・パーティーでのクオリーメンのコンサートをポール・マッカートニーが観覧。共通の友人であるアイヴァン・ボーンの紹介によりジョン・レノンと対面。ポールはギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック(Twenty Flight Rock[12])」を歌う。ポールが歌詞を完璧に覚えている事[13]に加え、トランペットやピアノも演奏出来る事にジョンは感心し、クオリーメンに勧誘。その翌日にポールは参加OKと返答した[14]。

1958年2月6日、ポールの紹介でジョージ・ハリスンがクオリーメンのオーディションを受ける。「ローンチー(Raunchy)」を完璧に弾きこなした事と、2人よりも多くのコードを知っていた事でジョンに認められ、バンドに加わる[14]。その後、3人以外のメンバーは次第に辞めていき、1959年1月にはバンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになる。同年10月、バンド名を「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」とする。

1960年1月、スチュアート・サトクリフがジョンに誘われベーシストとしてバンドに加入(経緯はスチュアート・サトクリフを参照の事)。しかし当初サトクリフは楽器演奏自体が未経験だったため、構造が簡単な曲から序々に覚えて行った。同年4月、ジョンとスチュアート・サトクリフにより[14]、バンド名をビートルズとする提案がなされるが、ブライアン・キャスが改名を要請(バンド名の由来を参照の事)。その後の交渉により、バンド名が「ロング・ジョン&シルヴァー・ビートルズ」になる。同年4月23、24日、ジョンとポールの2人が「ナーク・ツインズ」というユニット名で、ポールのいとこ夫婦が経営するパブで演奏する。

1960年5月、ロンドンの芸能関係者であるラリー・バーンズが担当する新しいソロシンガー(この時点ではまだ未定)のバックバンドを務めるオーディションにエントリー。参加を約束していたドラマーが来れなくなったが、キャス&カサノヴァズのジョニー・ハッチンソンが代役でドラムを担当して合格。ジョニー・ジェントルのバック・バンドとしてスコットランドにツアーに出る(この時、それぞれが芸名をつけていた。ジョン「ロング・ジョン」、ポール「ポール・ラモーン[15]」、ジョージ「カール・ハリスン」、スチュアート「スチュアート・ド・スタール」[14])。なお、この頃はドラマーが次から次へと入れ替わっていた。このツアーではトニー・ムーアというドラマーが参加し、ツアー終了後もしばらく在籍していたが、やがて脱退する。交代の度にやめていったドラマーが所有するドラムのパーツの一部が置き土産として手に入り、やがてフルセットに近いドラムセットが組みあがったため、ドラマーのいない時期はポールがドラムスを叩いたこともあった[14]。

1960年8月、アラン・ウィリアムスを通じてドイツ(当時は西ドイツ)のハンブルクでの仕事が入ったが、5人編成のバンドを希望してきたため、新たにドラマーが必要となる。この時、シルヴァー・ビートルズが出演していたカスバ・クラブの経営者の息子ピート・ベストがドラムスをやっていたので、メンバーとして誘い入れハンブルグに向かう。「インドラ」というクラブで毎日6〜8時間の演奏を行うが、当初はおとなしい演奏に終始したため評判が悪く、マネージャーのアドバイスもあってショー・アップを心がけ、また長時間のステージにより演奏も上達して次第に人気を獲得していく[14]。1か月後「カイザーケラー」に移動(同クラブの広告[14]によると、この時点で「The Beatles」というバンド名で出演している)。「デリー&ザ・シニアーズ」や、リンゴ・スターがドラムスを務める「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」と交代で出演する事になり、この時にリンゴと知己が生まれる。この頃、ピートがステージを休むことが数回あり、そんな時はリンゴが代役としてドラムスを叩いていた。また、この頃アストリットが友人とともに客として店に来るようになり、程なくサトクリフと恋仲となる(また写真家を目指していたアストリットによって、この頃のビートルズの写真が撮影され、それが後にザ・ビートルズ・アンソロジーなどビートルズに関する文献に収録された)。ハンブルグでクラブ演奏を始めて3か月後、カイザーケラーより格上のクラブ「トップテン」からの出演依頼が来たのと時期を同じくして、ジョージが満17歳で就労年齢制限に抵触している事が発覚して強制送還となり、さらに宿舎にしていた映画館の出火がきっかけとなってポールとピートも強制送還となり、残されたジョンも自力で帰国。サトクリフだけはアストリットの援助によりしばらくハンブルグに滞在した。

着氷性
呼称
雲から落下
天気図
雨氷の予測
災害
表面
過去に起こった
快晴(かいせい)
一般的な概念
天候のこと
暖かい雨
ある地点での
特異な
アメリカ
カレン
1967年
涙の乗車券
グループ
メルパラ
国内チャート
バリス
以降
近年の活躍
プロモーション
延期
再評価
プレリュード
来歴
振り付け師
時代
アドレスを使用
稀代
デビュー
ハンブルグ
フランス公演
シングル
ジョージ
作曲
音楽的評価
メルパラ
事件
ローマ教皇庁
ブライアン
著作権
マイケル
マドンナ
メルパラ
略歴
低迷期
メモワール
社会活動
ブラジル
音楽性
関連項目
放送時間
男女混成
勝敗
内容
視聴率
演奏
少年倶楽部
観覧募集
コンクール形態
観覧方法
参加校数
解体前
中野サンプラザ
参照
格闘技会場
その他
一面
再結成
項目
主要記事
3億枚


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